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昔、たわいないいたずらを、弟にしかけようとしたことがある。
それはそのころ、子供たちの間で流行っていた悪戯の一種だった。
秘密の話がある、と言って耳打ちするふりをして、そっと「のろいのことば」を吹き込むというものだ。
吹き込まれた子供はその言葉を20歳になるまでに忘れなくてはならない。
忘れられなければ「のろわれて」しまう、という迷信めいた悪戯である。
意味はない、ただ、眼に見えないものに対する恐怖を覚え始める年齢になると、どこからか流行り出す、いわゆる遊
びの一種である。
エドワードはその日、同級生に「のろいのことば」をまんまと耳元に浴びせられ、ひどく気分が悪かった。
ずんずんずん、とリゼンブールの田舎道を行く。太陽は夕暮まではまだ位置高く、さんさんと照るにはもう遅い。
なんだあいつ、人に呪いの言葉なんか教えやがって!呪いってなんだ、呪われたらどうなるんだ、友達だと思ってた
のに・・・!!
この気分の悪さを吐き出す先はやはり弟だろう、と学校の帰り道に息巻いていたのだ。
父親の書斎に入ると、案の定アルフォンスが、床に直接座り込んで本を読んでいる。
大きな本から、額と短い前髪だけが見えて、集中している証拠に字を追いながら小さくうなずいている。
「ただいま」
そういうと、ぴくりと、小動物のように小さな頭を持ち上げて、本の向こうから顔をのぞかせる。
「おかえり!」
何にも知らない弟の無邪気な顔が、今日はひどく苛立たしい。
なんだって兄ちゃんが、「のろいのことば」をかけられて呪われようとしているのに、弟のアルはこんな能天気なんだ。
くそう。
荷物を置いて、どっかと座った。「兄さん、手洗ったの?」という言葉に、大真面目な顔で「そんなことはどうでもいい」
と返す。
「よくないよ。いっつも母さんが帰って来たら手を洗いなさいって」
「そんなことよりもな、アル。」
「うん?」
「秘密の言葉、知ってるか?」
「ひみつのことば?」
アルフォンスは絵本ならぬ「錬金術の記述法・暗号解読の手引き」と書かれた本から顔を上げた。癖で、首を軽くかし
げている。
「そ、秘密の、言葉。」
「それ、錬金術の?」
「・・・っそうだ、これを知ってると、錬成が簡単にできるんだ!」
「ほんとう!?」
アルフォンスの、栗色の大きな瞳がきらきらと輝いた。普段穏やかな時の弟の顔はまるで母親のようにまろやかで優
しいが、好奇心が強く出ると、単なる無邪気な少年の顔になる。
エドワードはしてやったり、とひそかに笑んだ。
とんとんとん、と母親の包丁が立てる音が静かにキッチンから聞こえる。
秘密の言葉ならぬ「のろいのことば」を吹き込んだら弟は泣き出してしまうかもしれない、母さんに怒られるかもな。
だけど教えてしまいたい。俺が「のろいのことば」を吹き込まれた時にどんな気持ちになったのか、俺の弟なんだから
アルも思い知ればいいんだ。
外見は大真面目に装って、エドワードはアルフォンスとの距離をじりじりと詰めた。弟はうきうきと兄の言葉を待つ。
「兄さんは知ってるの?ひみつのことば。」
「知ってるに決まってるだろ。」
「すごいや!!」
「教えてやろうか」
「えっ!いいの!?」
本当に驚いた無垢な顔に、さすがに罪悪感がこみ上げてくる。
いやいや、兄ちゃんが苦しんでいる時に、弟だけがこんな能天気なのは、不公平だ!不平等だ!!
頭をぶるんと振ったエドワードを、アルフォンスは申し訳なさそうに見返した。
「兄さん」
「んあ?」
「兄さんはどうやって秘密の言葉を知ったの?」
「どうやってでも、だ!兄ちゃんに不可能はないんだ!!」
そう言ったら、弟は大きな瞳をくるくるさせて、口の端をふわりと上げた。
「ボクの兄さんは本当にすごいや。それをボクに教えてくれるの?本当に、いいの?」
「ん、教えてやる。俺の弟だからな。」
「ありがとう」
そう言って、にっこりと笑んだ。
兄さんのことが大好きだと零れだしそうなそんな、うれしそうな顔で純粋な笑顔で。
アルフォンスが、ふるふると体をゆすって居住まいを正す。兄よりもほんのひとまわりだけ小さい両ひざに、掌を載せ
てはい、と小さく声を漏らす。
兄を見た。
「はい、聞かせて」
口元に笑みを湛えて、弟は眼を閉じた。
目の前に無防備の弟がいる。
後は「のろいのことば」をささやくだけだ。
********
「わっ・・・しまった!」
コーヒーを作ってくれると言って、キッチンで湯を沸かしていたアルフォンスが、そう小さく呟いたから、エドワードは慌
ててキッチンに向かった。
キッチンには、頭からお湯をかぶって濡れた鎧がいる。革に覆われた片手で、頭に軽く手を置いている。
「アル?どうしたっ」
「あ、兄さん。ちょっとね、うっかりお湯をかぶっちゃって。」
「・・・どうやったらお前が頭からお湯をかぶるんだ」
「うん、スプーンが落ちたから拾おうとしたらこう、がつんとやかんにひっかかっちゃって・・・」
エドワードはどかどか近づいて、鎧の頭を見ようとした。見ようとしてついでにちょっと虚しくなる。
二人の体格差で、鎧のアルフォンスの頭は小さな兄にとってはほとんど死角である。
「ちょっと・・・見せてみろ。頭」
「え、いいよ。やけどなんかしないし。」
そう言ってやかんに新しく水を注いでいる。
「ごめんね邪魔して。すぐに新しいの持っていくからさ」
とかなんとか言っている鎧は健気を超えて鈍感だと、エドワードは大きくため息を付いた。
「なんだよ、その溜息。」
「じゃあ、頭拭いてやっとくから貸せよ」
「は?」
「いいから」
しぶしぶ感いっぱいに鎧が少しかがみこんだから、エドワードはアルフォンスの頭を外した。捧げ持つようにしっかりと
両脇を手に取る。
外す時に、ちらりと血印が見えた。
弟に刻まれた血印をみると、自分が施したものとはいえ、どんな瞬間でもぎくりとしてしまう。
自分が施してしまったからかもしれない。
小さな、しるし。
弟をこの世界に縛り付けている、
あるいはあの扉の中に閉じ込めている・・・・。
「なあ、血印触ってみたらいいんじゃないか?何かわかるかもしれねえぞ」
「え?」
首のない鎧が振り向く。エドワードは振り向いた弟ではなく、切り離された鎧の頭をじっと見つめながら、言葉を紡い
だ。
「アルさ、あいつらに連れて行かれた時に、扉の向こうをちょっと見たんだろ。でもどこかでぶちっと切れたって言って
たから、もしかしたらその血印になんらかの形で情報が集積されてんのかもしんねえぞ」
「・・・えっと」
「だから触ったらなにかしらわかるかもしれない。触るだけ、だけどさ。」
鎧は戸惑っているようだった。
エドワード自身さえも、自分が何を言おうとしているのかわからない。言葉は勝手に流れ出た。
「それって、触って何か分かるものかな。」
「さあ。俺も扉の向こうを少し見たことがあるんだし、錬成陣無しで錬成できる。もしかしたら術師となにかしら共鳴し
て情報が得られるかもしれねえだろ?」
「そ、うかな。うん、そうかも。」
アルフォンスは、火を止めて、エドワードをもう一度見た。エドワードは弟を誘うように、リビングに足を運ぶ。
二人でリビングに入る。
エドワードが振り返ると、鎧はかしゃんと小さな音を立てて、床にそのまま座った。
エドワードはちょっと考え、アルフォンスの前に両膝をついた。エドワードがいくら小さいと言っても、立ったままの位置
からでは、きちんとアルフォンスの血の印が見えない。
アルフォンスの、両肩に手を置いてその印を覗き込む。
同時に、意図せず周りの景色が全て色を失って、自分の心が存在が、そのしるしに向けられたような錯覚に陥った。
しん、と今、静寂と向かい合っている。
これは多分、虚無、あるいは白なのだと、頭のどこかで考えている。
目の前に、微かに光を放つ赤い血の印がある。
アルフォンスそのもの、そして罪のしるし。
手袋を外した左手を、そっとのばした。
触れるぎりぎりのところで、アルフォンスがぴくりと動いた。
アルフォンスはこの血印から周りの景色を見ているから、今ちょうど、向かい合っている状態になる。
さすがにすこし躊躇する。
そこから先に、掌を進める気になれなくて、ただアルフォンスを―紅い血の印を―ものも言わずにじっと見た。
アルフォンスも何も言わない。ないはずなのに、息をつめたような雰囲気が伝わってくる。
―――――何かに
何かに、祈っているようだ、と思った。目の前の紅い錬成陣をじっと見つめる。
眼を閉じて、兄の「のろいのことば」を待つ、弟の姿をふっと思い出した。
あの日、無防備に笑みをさらして兄から浴びせられる呪いを待っていた、アルフォンス。
結局、あの言葉は吹きこめなかった。
どうしてもできないのだ、こんなにもきれいな魂を踏みにじることなんてできっこない。
それはずっとずっと前に自分の血で、刻みつけたものだ。
あの日の罪の証である血の印は、今こんなにも尊い。
ああ、そうだ
「―――アル」
「何?」
弟は、首を傾げたようだった。兜が無いから分からないけれど、気配がもう、柔らかい。
確かに「ここ」は自分の聖域だ。何人にも、侵されない、侵すことを許せない場所。
エドワードは途方に暮れた。触れたくて触れたくてどうしようもないのに、自分の全体が、その存在に触れてくれるな
と叫んでいる。
「兄さん、触らないの?」
「・・・ん、もう、いい」
鎧の大きな肩に、両手を置いて、額を弟の胸部に載せた。
宗教の本なら一通り読んだことがある。
人がすべてを捧げて懺悔をしたくなるようなそんな瞬間を、自分も、知っている。
これは宗教なのだろうか。とふと考えた。
神。
超越的絶対者。
そんなもの、科学者として、掲げることへの意味を見いだせはしないのだけれど
「どうしたのさ」
「なんでもない。」
だけど、この存在だけは信じられる。
俺の唯一にして絶対なんだ。
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