SEA OF THORNS












あさがくるのがこわい。

あめがふるのがこわい。

だから、いたい。


いたい、いたい、痛い。






目を覚ました。


いやな夢を見ていたことは確かなのに、どんな夢だったのかはまったく覚えていない。
暗い夢の後味が喉の奥、体の芯に重く響いて瞼をひらくことすら億劫な気持ちに戸惑った。

―――俺は今、どこにいるんだ。

時間がわからない。
多分深夜、深い闇の底にいる。
音がない、鼓膜がそこにいるはずの生気を拾えずに、ただ痛む右腕の付け根だけが、窓の外で降り荒んでいるであ
ろう雨の気配を伝えてくる。

「―――アル?」

小さな声で、でも切実にその存在を呼んだ。
目を閉じたままその呼びかけは、狭い部屋の中に、空虚に放られたボールのように響いて壁に当たり、ぽとりと落ち
た。そこから、切実さやすべての熱を失って、絶対の孤独を帯びていく。

無理やりベッドから起き上がって部屋を見渡す。昨日の夜には確かに居て、本を読んでいた大きな鎧はそこに居な
かった。
アルフォンスは、雨の降る夜は散歩に行ってしまう日が多い。
心細い夜に、弟無しで一人で時間を過ごすには、自分が弱すぎることを、エドワードは痛いほど分かっている。

「・・・金属なんだから・・・錆びるだろ」

シャツをはおりながら独り言に悪態をついた。理由が分かっているだけにやり場のないいらだちがこみ上げる。
雨の日に、兄はよくうなされる。
それを弟に聞かせなくないエドワードの気持ちを、アルフォンスがわからないはずがないのだ。
どこを探せばいいのだろう。
一度一緒に散歩について行ったときは、迷わないように、そんなに遠くには行かないのだ、と言っていた。

「大体猫を探してるかな、だから路地裏とか・・・」
歌うように告げた大きな鎧は、あ、と小さな声を漏らして言葉を閉ざした。
猫が嫌いなわけじゃないんだぞ、と言ったら笑っていたけれど。

ひどく右腕がうずく。宿の扉をそっと開いて、雨の降る外に出かけた。

思っていたよりもひどい雨に、傘は持っていただろうかと考えた。弟はときどき持っていたはずの傘を忘れて戻ってく
る。どうしたんだ、と聞いたら、ひどく空虚な声で「だっていらないもの」とぽつりと答えたことがある。


兄が悪夢を見ている間、弟は何を見ているのだろう。
兄が目を閉じてこの世界から逃げてしまっている時に、あの優しい鎧は、何に癒しを求めるのだろう。
何に救いを求めているのだろう。



ときどきひどく怖くなる。


あてどもなく、町の中を歩いた。路面の水に街灯が乱反射して、様々なものは輪郭をなくし、闇にとけてしまってい
る。
あの大きな鎧だけはどんな闇の中にも見落とさないように、どんなことがあってもこの瞳で捕らえようと、陰る路地を
見つめる。





雨が降りそそぐ。エドワードは立ち尽くして、呼吸を忘れたように言葉を紡げずにいた。
「アル。」
小さな、簡単な雑音に殺されるほどの音でつぶやいたのに、大きな鎧はその兜をエドワードに向けた。金属のこすれ
る音すら、滴り落ちるしずくの中に磨滅されていく

何も言わなければ、それは単なる鎧だった。
雨の道路に見捨てられ、うずくまり声を発するはずの無い、無機物だった。
「アル。」
もう一度呼ぶ。今度は安心を含んで、やっと笑いかけた。

声を聞きたい。
金属のこすれる音でもなく、雨が鎧にぶつかって、その水の勢いさえ死んでいく、そんな音ではなく。
弟の、優しい音楽のような声を聞きたいと思った。
「何してんだ。あめふってるだろ。・・・錆びちまうぞ。」

「にいさん・・・」
答えた鎧の声は震えて、どうしたことかすでに泣いていた。
咄嗟に抱きしめてしまいたくなるような、そんな力弱さを持っている。

「だめかなあ」
「――アル?」
「兄さん。やっぱり、もう駄目かなあ」

何を言っているのかわからなくて、エドワードは戸惑いながら道端にうずくまる鎧の兜が放つ赤い光を覗き込むなが
ら、かがんだ。頭に左手を載せる。固くて冷たい鎧が、細かく震えているのがわかった。

「だめかな、兄さん・・・もう、駄目かなあ」
「どうした?落ち着け」
さっきまでの心細さを引きずって、困り果てたような声を発してしまった。しまったと思ったけれど、今は相手の方が取
り乱してしまっている。




ああ、こんなにも心弱い。
たった12歳の柔らかな魂を持った弟は今、無機質な硬い鎧に、有無を言わさず張り付けられている。

張り付けられて、泣いている。
涙を失って尚、泣きたいのだと泣いている。



震えながら差し出す掌を覗き込む。
大きなグローブのような掌だ。
その大きな右の掌を左の掌で大切そうにふたをするように何かを包み持っていた。
捧げるように、少しだけ隙間を開けてエドワードにさし出す。

「ん・・・?」

目を細めてその掌を覗き込んだ。暗い色の掌と、雨が邪魔をしてよく見えない。首を傾げてようやく、何を包み持って
いるのか、どうしてこんなに取り乱しているのかを理解した。

「お前・・・一晩中抱きしめてたのか」
左手の手袋を取る。手を差し伸べて、包まれていたその物体に触れた。
ぴくりとも動かない、冷たくすっかり固くなってしまっている。
濡れて、けば立ち生気を失った白い毛を撫でてみた。力なく放り出された足が四本、大きな掌の中に静かに横たわっ
ている。

鎧は声を発さない。ただ、そんなはずはないのにすがるような視線を感じた。
赤く点滅する光を見つめかえす。

「もう、だめかな・・・」
途方に暮れたような柔らかな声が雨より強く、しとどにエドワードの心を濡らした。


ああ、わからなかったのだ。
温度も、脈も、柔らかさも分からない鎧は、動かない掌中の子猫が死んでしまっていることを、わかっていても兄に尋
ねるのが怖かったに違いない。
死すら、捉えられない自分自身が、怖かったに違いない。
一晩中、小さいけれどでも確かな死を、その腕に抱いて恐怖におののいたに違いない。


できるだけ優しいしぐさで、掌の小さな死を左手で包みこむ。
金属の右手で、大きな鎧を、抱き締めようとしてしがみついた。熱は持たないけれど持てないけれど、鎧が冷え切っ
ているように思った。
触れると、かつん、とすこし重い音が水に濡れた。

「アル、帰って一緒に埋めよう」
その言葉に、弟は何も言わなかった。ただ小さく、意味のない音を吐き出した。
多分、これは嗚咽なのだ。
目を閉じる。前髪を、雨が伝って流れおちていく。そうしてそのしずくは鎧の兜に伝い落ちて有無を言わさず次々に弟
を濡らしていく。




「こわいよ・・・・」
必死で抱きしめようとする端から、鎧が発した力弱い声に心が濡れていく。
名前を呼ぼうとした。
街頭にうずくまる、この無機質な黒いかたまりの、名前を。




「こわいよ、兄さん・・・」





ああ、こんなにも心弱い。
朝が来るのが怖い。この弟にまたこの恐怖を与えることが怖い。
雨が怖い。自分が弱くなってしまうことが怖い。
縋ってしまうのが怖い。

弟が、アルフォンスが、声を上げて泣くことが、そうしてそれを許容できない弱い自分が怖い。


だから、いたい。

いたい、いたい、痛い。
















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