君を呼べる黄昏

(四)







玄関を開けると、ふんわり温かい空気といい匂いがたちこめていて、正直ちょっと泣きたくなる。

毎日のことなのにエドワードは玄関先でいつも、呼吸を整える。
仕事から終わるころになると何となく気持ちが急いてしまう。駆けて通り過ぎた廊下ですれ違った上司には苦笑され
たが構ってなどいられなかった。
なぜって、落ち着いてなどいられないのだ。帰りつくと、自分をすべての要素で歓迎するような、あの存在が待ってい
る。

あの微笑みが待っている。


家庭を持つってこんな感じなのかなあ、とぼんやり考えながら、キッチンへ続くドアを開けた。鍋の前に立つ背中を見
つける。本当は声をかけることすらためらってしまって、見つめていることが多い。

ただ生まれたときから大切なものはいつも変わらなくて、それはどんな時でも自分を待ってくれていて、迎え入れてく
れる。そんな存在が今ここにある幸福と幸運を考えると、ひどく切ない気持になる。

「アル、ただいま」
「あれ、兄さん、はやっ。何かまたしでかした?」
おたまを握ったままこちらを振り向いたアルフォンスをじっと見つめた。西日が射して、アルフォンスの握るお玉を照ら
す。少しまぶしい。
「何したのとはなんだ。ちょっと無能を強請って早く帰ってきただけだ。」
小さな溜息。
微笑した弟なんてそれこそ毎日見ているのに、一足一挙動を見逃すことが出来ない。

「それだけで十分だよ。また・・・大佐も大佐だ。うまく使われて。」

飯は?
今できるとこ。

荷物をソファに投げだす。キッチンに直行する。
また、気持ちが少し急いてくる。

「アルに会いたくて帰ってきた。」
後ろから抱きしめる。
弟がおたまをひと回し。困ったような笑顔の気配がする。
きっと鍋の中のシチューは美味しく煮立っているだろう。
「一日10時間は会ってるよ。」
「・・・会ってても。」
会ってても、時々知らない顔を見せる


「風邪ひいては無いみたいだな。」
「・・・風邪?」

さっきの情景を思い起こす。仕事からの帰り、雨だからと送ってもらう最中に道端にたたずむ弟を見かけた。
兄の見たことのないような表情をしていた、弟の横顔。

「今日見たぞ。車から。雨降ってんのに、傘もささずにお前なんかしてただろ。なにしてた。」
でも本当はエドワードにはすぐにわかった。それは弟が体を失っていたころから何度か見てきた姿で、むしろ自然な
風景にさえ思えた。帰ったらちゃんと怒ろうとも思ったのだ。
ただ、通り過ぎる時かすめるように見えた、その表情だけがひどく弱かったから。

「・・・・・・・・・ねこ」
「またぁ?」
「だってかわいそうだろ。雨に打たれてみゃーみゃー鳴いてたんだよ。」
猫がみゃーと鳴かなくなったらそれはそれで大変だ。そう思ったけれど何も言わなかった。
ただ弟のシャツからすっきり伸びる首筋に顔をうずめる。深い息を吐いた。

本当は。

本当は、どこにも行って欲しくない、外になんか出てほしくない。
一日中家にいて、できるなら自分も家にいて、ずっとその存在を感じていたい。
猫を飼うことをなかなか許さないのもそのせいなのかもしれない、世界の一切に対してこの存在を譲ることも妥協する
こともできないのは、さすがに自分でも罪深いとは自覚している。

弟の、アルフォンスの温かさをいつでもいかなる時でも確認して、触れて、吸いこんで。

そんな思いを飲み下した。
実の弟をこうしてしっかりと抱き抱えることを許される関係っていうのは、やはりすでに特殊だと思う。



「で?猫、どうしたんだよ。つれて帰らなかったのか?」
「うん。・・・飼えないよね。だから知りあいのところに頼んで飼ってもらうことにしたよ。」
そんなことねえよ、別にお前がどうしても飼いたいって言うなら飼ってもいいのに。もう根無し草ではないだろ。
前は、何度かつれて帰ってきたのに。

唱えるようにそこまで言葉を並べてから弟の表情を伺った。微笑しているが、目を伏せたままだ。
「今日、お前元気ない?」
「ん?・・・・・・できるよ?」
つい笑った。まあ、兄の発言をとらえる方向がそうなってしまったのは間違いなく自分のせいだ。

「そうじゃねえよ、そっちじゃなくて。今日、なんか元気ないだろ。朝もぼんやりしてた」
腰に回った手に力が込められる。アルフォンスは何も答えずにただその腕をちょっとなでた。

もう片方の手で、またお玉をひと回し。

「・・・できた」
「アル。」
コンロの火を止めた弟の顔を覗き込むように見ると、振りかえりざま、唇が触れてきた。
うまくなだめられた気がする。でもそれはすごく優しくて、そうしてエドワードの言葉をとどめてしまうような力を持って
いた。

体ごと振り返ってきた体を、正面から抱きしめた。


なぜだか今日はこんなに切ない。

腰にまわした腕に力を入れる。
額を首筋にこすりつけると、「御飯にしようよ」とアルフォンスが弾むように笑った。
兄さんも料理、できるようにならなくちゃ・・・
変に言葉を区切った弟に、曖昧に笑って返事を返す。


そうだ、きっと黄昏時だからだ。

黄昏が始まる。
キッチンが、オレンジの光に染まる。

光たちの戯れが終わり、闇が満ちてくる。
そうして眼を閉じてしまう。
動けなくなる

うごけなくなる













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