センスレス


1







目が覚めたら、自分がどこの誰だかわからなくなっていた。



自分の上司だ、といったロイ・マスタングとかいう男が言った。
「お前はエドワードエルリックという人間で、軍人。知るべき情報はそれだけで十分だろう。」

エドワード・エルリック(それが自分の名前らしい)が一番最初に目を覚ましたのは軍部の病室で、鎮静剤を打たれて
動けなくなっていた。
自分に対する憎しみさえ持っている、とでもいうような表情で見てくる黒い眼を、ベッドからぼんやりと見上げる。

その男が、お前はこれからまた軍の狗として働くんだと言った。
なんだかどうでもよかったので、「へえ」と返した。
頭痛がやまない。

そこはこれ以上ない程無機質な病室のようだった。白い壁にはシミひとつない。ゆっくりと視界をめぐらせてみると、大
きなスクリーンほどの大きさの鏡が横になっている自分を映し出している。

これが、エドワード・エルリックで、軍人の、おれ
どうも軍の役にも立たなそうな人間だな、とちょっと可笑しくなった。

しっかりと覚醒してみると、
生まれてから今までの記憶が一切ない。
自分が何者なのか
なぜ右腕が機械鎧と呼ばれる義手なのか
なにがなんだかわからない。

無機質な天井を眺めている。どうせマジックミラーであろう鏡をひと睨みして、自分の中に巣食う空虚さにほとほとま
いってしまった。
記憶など、ないほうがいいような人間なのかもしれない、と思った。そうしてすべてがどうでもよくなった。

ただ、ひどい喪失感に吐き気を覚える。
何を失ったのかさえ覚えてないのだが。





軍部ではこれまた何故か、針のむしろだった。
仕事をし始めてから気づいたのは、軍部のほとんど全員がエドワードに敵意を抱いていること。
同僚だけでなく、廊下ですれ違う全く関係ない者たちでさえ、すれ違うと振り返りこちらを見てくる。
その眼に漲る憎しみには、記憶のない自分自身にはある程度慣れることはできても、なかなか慣れることができな
かった。

だから、仕事においてはずいぶん暴れた。敵味方関係なく。敵ならば情け容赦なく傷つけ、見方であっても寄せ付け
ず、近寄ってくるものには牙をむいた。
事務仕事でも実戦であっても、ずば抜けた理解力を持ち、要領もいいために一様の仕事はこなすことができた。ただ
その性格とおそらく失われた過去によって、ひとから遠ざけられ、自分も人と距離を置いていた。

俺には、わけのわからない大きな穴があいている。

何かに、いつもイライラしていた。いつも何か足りなかった。







「記憶喪失だとよ、気楽なもんだ。」

そうだな、まったく。気楽なもんだ。
いつものように、拳を振り上げる。何の感情も湧かないのは、きっとこの喪失感のせいだと思った。



「屈強な軍人二人を重傷にまで至らしめた気分はどうだ。」
嫌味な上司が苦々しげにつぶやく。エドワードは上司に対面するソファーにふんぞり返って腕を組んでいる。自分のブ
ーツの足先を見つめていた。
「報告によると、二人は君が記憶喪失であることを廊下ですれ違いざま揶揄したそうだが。それで君が劇場して殴り
つけた。間違いはないかね。」
返事も返さない。
上司はため息ももらさずに「くだらん」と吐き捨てた。

「君と話さねばならんものがいる。この部屋へ行け。」
白い紙きれに、部屋の名前だけが書いてある。自分で取り出したくせに、エドワードが受け取ろうとしたときロイマス
タングは一瞬紙をエドワードから奪うように引いた。
エドワードが訝しげにマスタングを見る。マスタングは自分で気づいていなかったらしい、自分に向けられた視線によ
ってやっと気がつき、
「ああ、つい・・・」
と、自嘲するように笑った。







その紙に書かれた部屋に行く時少し迷った。それほど小さな部屋でエドワードは足を踏み入れたこともないエリアの
中にあった。
部屋に入ると、その青年がいた。

向かい合って座る。なんの前触れもなしに、金髪の青年が口を開いた。
「混乱させてしまって、すみませんでした、エドワードさん。」
長い脚に乗せていた指を、少し前かがみになりながら両膝の間あたりで組む。
「あなたに負担のかかることを恐れるあまり、あなたにあなたの過去を隠していた。でも、逆に混乱させてしまったよう
ですね。」
「誰だ、オマエ」
じろりと睨む、自分は今猛烈に人相が悪いはずだ。
「ボクはあなたの補佐を務めることになりました。あなたの記憶も、大筋でですが知っているし、お教えすることができ
ると思います。」
黒縁メガネの奥の、金色の目。それが細められてにこりと青年がほほ笑んだ。


「アルフォンスです。アルフォンス・マスタング。よろしくお願いします。」
手が差し出された。訝しげに、けれどもエドワードはその手を握り返した。柔らかくて、温かい。

「アルフォンス、マスタング・・・変な名前だな。」
自分が不思議に落ち着いていることに驚いた。この青年の柔らかい雰囲気のせいだろうか。

ん?と青年は首を傾げて、
「よく言われるよ。」
と、にっと笑って見せた。




青年によると、何と自分は過去に、錬金術において禁忌とされている人体錬成を行ったらしい。
俄かには信じられない。気がついたように鋼色の右手を見つめた。
「もしかして、それで右腕がないのか。」

アルフォンスと名乗った青年が無表情にうなずく。

「・・・資料によると、君は弟と一緒に亡くなった母親を錬成しようとした。でも失敗してしまい、弟はその時に死亡、君
も右腕を失った上に5年間眠り続けた。」
「・・・人体錬成のリバウンドってやつか?」
自分ならやるかもしれないな、と自嘲気味に笑った。

「そう、禁忌に関しては軍の機密だから、マスタング大佐が、君たちの人体錬成の報告を受けたとき、ただちに残され
ていた君の身柄を確保した。意識がないまま、君は軍の病院に5年間留置されていた、ということになる。」
この資料が正しければね。
そう言って、青年は青い分厚いファイルをよいしょ、と畳んだ。

「マスタング・・・」
「ん?」
「お前、マスタングの身内?兄弟か?」
青年は二・三度瞬きして、ああ、と笑った。

「いや、兄弟じゃないよ。ボクはロイさんの、息子。」
「隠し子か・・・」
まあ、あれじゃしょうがねえよなあとかなんとかエドワードがぼやいている。にてねえな、とも。

アルフォンスが噴き出した。しまったという風に口を押さえて、でも抑えきれずにくくく、と口の端から笑いが漏れてい
る。
「なんだよ、違うのか。」
思わず拗ねた口調になる。
青年が笑うと、空気の色がわずか変わったようだった。今までの軍人とは思えない、朗らかな雰囲気を持っている。

「いや、ボクは養子なんだ。実はボクも錬金術を専門にしててね、大佐が軍にボクを引っ張ってくれたときに、養父とし
て後見人になってくれたんだよ。ボクには、身寄りがなかったから。」
「ふうん・・・。」
アルフォンスが目を伏せる。長いまつげだな、とか考えて「じゃあさ、」とふと思ったことを口にした。
「母親も死んだ、弟も死んだ・・・父親は行方不明。それで、オレにはひとりも家族はいないのか。」

別に悲しいことでは無いように思えた。記憶のない自分では、失ってしまった家族というものを思い出せないし想像も
できない。それらはもはや、かすむ余地もないほど遠い感覚のようだった。
だが目の前の青年の印象が変わった。笑顔が固まって、かすかうつむく。

「うん・・・そうなるね。でも君にはちゃんと故郷のリゼンブールに後見人となっている人がいる。・・・ピナコさんという優
秀な技術師だって。かわいいお笹馴染みもいるって聞いたよ。」
へー、と返した。全く実感もわかなくて、なんだか他人事のようにすら思えた。リゼンブールというところがどんな所か
さえも知らない。
「一度故郷に行ってみると、わかることもあるかもね」とアルフォンスが笑む。

その日初めて会った若い軍人が自分の過去について語ることを、うのみにする気はなかった。ただ家族を持たないと
いうこと、人体錬成をしようとしたという部分が、突拍子もなくて妙に現実的だった。
「そういや、弟・・・」
「え?」
「夢の中で弟に、呼ばれた。兄さん起きてって・・・」
おれ、弟にすげえ悪いことしてるはずのにな。禁忌犯して。自分だけのうのうと生き残ってさ。記憶無ぇけど。



「もしも・・・」

アルフォンスがつぶやくように発した言葉を、最初エドワードは聞き取れなかった。しばらくして「なんか言ったか?」と
返す。
「もしも・・・どうしてもさびしかったら、ボクのことを、弟、と思ってくれたらいいよ・・・」
さびしそうなほほ笑み、胸に引っ掛かってしまうような。

「そいつは・・・」
随分できた弟だな。

そう思いながら、青年のすぐに伏せられてしまった瞳を見詰めた。






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